KUWAI HANA

Between Emotion and the Laws of Nature

遅れて届いた手紙 ― PHOTOという場所をつくる理由

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約11分

写真との距離

写真を撮ることが、あまり好きではない。

いきなり妙な書き出しだと思われるかもしれない。写真のページをつくり、その最初の文章がこれなのだから。けれど、これが偽らざるところで、ここから書き始めないと嘘になる。三十年近くにわたって、私はかなりの数の写真を撮ってきた。それにもかかわらず、カメラを持って写真を撮るという行為そのものを、心から好きだと思ったことはあまりない。むしろ、面倒だと思うことの方が多い。構図を整え、光を待ち、角度を選ぶ。そして何より、何かを「より美しく見せよう」と意識した瞬間、そこに作為が生まれてしまう。

私は、その作為というものに昔からどこか居心地の悪さを感じてきた。美しいものを、さらに美しく撮ろうとする。格好のいいものを、もっと格好よく見せようとする。それは写真という表現にとって当然の行為なのかもしれない。けれど私自身は、その手つきのどこかで、目の前にあったはずのものが、自分の都合のいい形にすり替わっていくような感覚を覚える。だから私は、今でも写真が得意だとは思っていないし、自分を写真家だと思ったこともない。それでも、心に引っかかった光景には、いつのまにかレンズを向けている。それが私と写真との関係なのだと思う。

写真を撮り始めた理由

私が写真を撮るようになったきっかけは、芸術でも表現でもなかった。仕事だった。1998年、私はハーレーダビッドソン専門のカスタムショップ、BAD LAND を立ち上げた。当時はまだインターネットの黎明期である。現在では、企業やブランド、個人経営の店舗に至るまでウェブサイトを持ち、そこから情報を発信することなど当たり前になっている。しかし1990年代の終わりから2000年頃は、一介のハーレーダビッドソンのカスタムショップが自分たちのホームページを持っているということ自体は、決して一般的ではなかった。

BAD LAND から新しい情報を発信しようと思えば、当時、日本に数誌存在していたハーレーダビッドソン専門誌を頼るしかない。もちろん雑誌は非常に重要な媒体だった。しかし月刊、あるいは隔月刊という時間の流れは、私が発信したい速度とはまったく合わなかった。

新しいカスタムバイクが完成した。
新しいパーツをつくった。
新しいアイデアが生まれた。

今日起きたことを、私は今日伝えたかった。
一か月後では遅い。二か月後では、もっと遅い。

そこで2000年、私は自社のホームページを立ち上げることを決めた。今振り返れば、BAD LAND にとって相当に大きな決断だったと思う。とはいえ、その頃の私はホームページ制作の知識などまったく持っていなかった。それどころか Macintosh を前にして、カタカナ入力することにさえ悪戦苦闘していたような時代である。そんな人間が、自分でページをつくり、自分で更新し、文章を書き、写真を掲載していこうとしていたのだから、随分と無謀なことを始めたものだと思う。それでも私は、これから BAD LAND という仕事を続けていくならば、自分たち自身の言葉で、自分たち自身の情報を発信できなければ、いつか致命的な弱点になると考えていた。だから勉強した。ホームページのつくり方を覚え、文章を書き、ページを更新することを覚えた。そして、その過程で避けて通れなかったものが写真だった。

仕方なく手にしたカメラ

当然のことながらウェブサイトに必要なのは文章だけではない。むしろカスタムされたハーレーダビッドソンというものを伝えるためには、写真の力は圧倒的に大きい。

タンクの造形。
エンジンの表情。
マフラーの流れ。
金属の質感。
塗装のゆらめき。
車体全体のプロポーション、そして細かなディテール。

それらは文章だけでは伝えることができない。そこで私は、仕方なくデジタルカメラを手にした。それまでカメラに特別な興味があったわけではない。写真を学んだ経験もない。露出も、絞りも、シャッタースピードも分からない。ただ、自分たちがつくったものを人に伝えるためには写真が必要だった。最初は、それだけだった。だから私にとって写真は、表現ではなく「伝達のための道具」として始まったのである。

ライカを手にしてから

その感覚が変わり始めたのは、2012年からである。それまではキヤノンの機材で一式を揃えていた。特に不満があったわけではない。けれどある日突然、これからはライカでなくてはだめだという、まったく根拠のない思い込みが自分の中に湧いてきた。理屈ではなかった。ほとんど盲目的な確信だった。

結局、私はキヤノンの機材をすべて処分し、自分の周辺にあるカメラ機材をすべてライカに入れ替えてしまった。M型のデジタルライカである。そして手に取って一番初めに驚いたのは、デジタルであると言いながら、そのカメラが恐ろしく原始的だったことだ。絞り。光。そして何より、ファインダーを覗いても、構図を全く決めることができない。ピントをどこに置けば良いのかすら、分からなかった。自分が見ている枠と、写ることになる像とが、完全には一致しない。カメラが助けてくれる部分がほとんどない。撮る人間が何をしているのかが、そのまま結果に出てしまう。

そんなカメラだとは思っていなかった。

だから、ライカを手にしてからしばらくのあいだ、半年近くだろうか、私は満足な写真をまったく撮ることができなかった。何を撮っても、自分が思っていたものとは違うものが写っている。今まで撮れていたはずのものが、撮れない。ただ、その期間があったからこそ、変わったのだと思う。カメラに任せられない以上、自分で見るしかない。見て、決めて、押すしかない。その単純な手順を半年繰り返しているうちに、それまで自分には縁のないものだと思っていたストリートスナップの良さや楽しさが、少しずつ分かるようになっていた。

街を歩く。人が通り過ぎる。光が動く。何も起きない時間が続いて、ふいに何かが噛み合う。その一瞬だけシャッターを押す。そこには、被写体を整える余地がない。光を待つことも、角度を選び直すこともできない。つまり、私が一番苦手としてきた作為が、入り込む隙をほとんど持たない。だから性に合ったのだと思う。

写真を撮るという行為そのものは、今でも面倒だと感じることが多い。けれどライカを提げて街を歩く時間だけは、はっきりと楽しい。それは撮影というより、歩くことに近い。歩いている途中で、たまたま何かが目に留まる。ただそれだけのことだ。いずれにしても、私は「今日は良い写真を撮るぞ」と気負って外へ出るタイプではない。仕事をし、旅をし、人と会い、バイクに乗り、街を歩き、人生を過ごしている。その途中で、ときどき妙に心に残る光景に出会う。そのときだけ、私はカメラを向ける。

心に引っかかったもの

それは必ずしも美しいものではない。むしろ、なぜ自分がそれに反応しレンズを向けたのか、その場ではよく分からないことの方が多い。

壁の染み。
古びた建物。
夕方の道路。
雨に濡れた金属。
旅先の窓。
誰もいない場所。
妙な光。
何気なく置かれた物。
通り過ぎる人。
あるいは、自分でも説明のつかない何か。

「これは写真になる」と考えて撮るのではない。そこに何かがある。自分の中のどこかが、それに反応する。だから撮る。それだけである。おそらく私は、対象そのものを撮っているのではないのだと思う。その対象に触れたときに、自分の中に生まれた何かを撮っている。それは感情と呼ぶほど明確なものではない。記憶とも違う。意味とも違う。もっと曖昧で、もっと言葉になりにくいものだ。

「心象」という言葉が、一番近いのかもしれない。

心象とは、外の世界を見たとき、心の内側に生まれる像のことである。写真に写っているものは外部の風景であっても、本当に残っているのは、その瞬間の自分自身なのではないか。最近、そう考えるようになった。

三十年という時間

今回、自分のウェブサイトをつくるにあたり、三十年近くのあいだに撮りためてきた写真をあらためて見返した。そこには当然、忘れていた写真が無数にあった。いつ撮ったのか。どこで撮ったのか。なぜ撮ったのか。まったく思い出せないものもある。しかし、不思議なことが起きる。見ているうちに、撮影した当時には気づかなかったものが、長い時間を経て、突然こちらに向かって立ち上がってくるのだ。

撮った瞬間には、ただの風景だった。
ただの光だった。
ただの道だった。
ただそこにあった物だった。

それが年月を経ると、まったく別の意味を持ち始める。そこに写っているのは、過去そのものではない。むしろ、現在の自分から見た過去である。写真そのものは変わっていない。変わったのは、こちら側だ。三十年近く前の私と、現在の私は違う。経験したことも違う。失ったものもある。手に入れたものもある。人との出会いも別れもあった。時間だけが積み重なっている。その現在の自分が過去の一枚を見ることで、撮影した当時には存在しなかった意味が生まれる。

私はそれを、どこか「遅れて届いた手紙」のように感じた。

あの頃の自分が、現在の自分に向けて何かを書き残していた。もちろん当時の私は、そんなつもりでシャッターを押したわけではない。だからこそ、不思議なのである。写真とは、撮った瞬間に完成するものではないのかもしれない。十年後、二十年後、その写真を見る人間の中で、もう一度つくられる。時間そのものが、写真に意味を加えていく。

記録から表現へ

写真を撮り始めた2000年頃の私は、写真をアートとして考えてはいなかった。BAD LAND の仕事を伝えるための写真。ホームページを更新するための写真。それが出発点だった。しかし三十年近く分を一度に眺めてみると、その中には仕事の記録という言葉だけでは説明できないものが残っていた。

私はおそらく、無意識のうちに、自分が気になったものだけを選択し続けていた。撮るものと、撮らないもの。レンズを向けるものと、そのまま通り過ぎるもの。その選択を三十年近く繰り返せば、そこには一人の人間の視線の癖が現れる。

何に心が動いたのか。
何を美しいと思ったのか。
何を不穏だと思ったのか。
何に寂しさを感じたのか。
何に時間を感じたのか。
何に立ち止まったのか。

写真には、その答えが意図せず残っている。そう考えたとき、初めて私は、自分が撮ってきた写真を単なる記録ではなく、一つの表現として見てみようと思った。

なぜ「PHOTO」をつくるのか

このウェブサイトに「PHOTO」という場所をつくった理由は、ここにある。私は、写真家を名乗りたいわけではない。写真という新しい肩書きを手に入れたいわけでもない。三十年近く撮り続けてきた写真を、作品らしく見せるために並べたいわけでもない。ただ、自分という人間が長い時間の中で何を見てきたのか。その視線の断片を、一度きちんと外の世界に置いてみたいと思った。それは UNDULATION の作品とも違う。BAD LAND のバイクとも違う。文章とも違う。けれど、すべて同じ一人の人間から生まれている。

バイクをつくる目。
絵を見る目。
金属を見る目。
光を見る目。
人を見る目。
街を見る目。
時間を見る目。

その根底にあるものは、おそらく同じなのだと思う。だから、この「PHOTO」は私にとって、UNDULATIONなどの造形とは別の独立した世界でありながら、同時に、自分という存在を構成している一つの断片でもある。考えてみれば、2000年にホームページを立ち上げたときと、やろうとしていることはそう変わらない。誰かの都合のペースを待たずに、自分の手で、自分の速度で出す。あのときは、それが事業のためだったが、今回は、自分のために出す。

美しく見せるためではなく

写真を撮ること全般を、私がこの先すっかり好きになることは、おそらくないのだと思う。写真のために何かを演出することも、あまりしたくない。より美しく見せるために物を動かし、光を整え、完璧な構図をつくることにも、それほど興味を持てないだろう。

もちろん、写真という表現においてそうした行為を否定しているわけではない。これはあくまで、私自身の写真との距離の取り方である。私が撮りたいのは、完成された美ではない。自分でも理由の分からないまま、なぜか心に引っかかったものだ。

美しいから撮るのではない。
意味があるから撮るのでもない。
そこに何かを感じたから撮る。

その「何か」が何だったのかは、もしかすると二十年後にならなければ分からないかもしれない。今は、それでいいと思っている。

PHOTO by HANA

ここでは、三十年近くのあいだに撮りためてきた写真の中から、現在の私があらためて残したいと思うものを少しずつ紹介していく。BAD LAND の仕事の延長で撮ったものもある。旅の途中で撮ったものもある。ライカを提げて街を歩きながら撮ったものもある。日常の中で何気なく撮ったものもある。何のために撮ったのか、今となっては分からない写真もある。順番は時系列でなくてもいい。テーマもばらばらでいい。説明は最小限にするつもりだ。言葉を添えたくなったときだけ添える。写真に解説をつけすぎると、それもまた作為になる。

けれど、振り返ってみれば、それらには共通して一つのものが残っている。その瞬間、そこにいた私の視線である。写真は過去を保存するものだと言われる。しかし私は、少し違うように思う。写真が保存しているのは、過去そのものではない。ある一瞬に、世界と自分が交差した痕跡なのではないだろうか。

そして、その痕跡は時間が経つことで、別の意味を帯びていく。かつては見えなかったものが、今になって見える。今は何も感じない一枚が、十年後には突然何かを語り始めるかもしれない。そう考えると、写真というものは不思議だ。シャッターを押した瞬間に時間を止めながら、その意味だけは止めることができない。むしろ時間とともに変わり続ける。

だから私は、この場所に写真を残していこうと思う。私が見た世界を見せたい、というよりも。私の中を通り過ぎていった時間の断片を、ここに置いておきたい。それがいつか、誰かの時間と交差するかもしれない。あるいは未来の私自身に、もう一度何かを語りかけてくるかもしれない。


写真を撮ることが、あまり好きではない。より美しく見せようとした瞬間、そこに作為が生まれてしまう。それでも、心に引っかかった光景には、いつのまにかレンズを向けている。三十年分を見返すと、当時は気づかなかった時間が、遅れて届いた手紙のように立ち上がってくる。

PHOTO by HANA とは、私の心象と時間の断片です。

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