KUWAI HANA

Between Emotion and the Laws of Nature
VOTIVE 04

虚無へ捧げるための供物

KUWAIHANA
CONTEMPORARY ART

BODIES
VOTIVE SERIES

BETWEEN EMOTION AND THE LAWS OF NATURE

VOTIVE

虚無へ捧げるための供物

THE ART WORK

KUWAI HANA — BODIES

虚無へ捧げるための供物

VOTIVE SERIES
ORIGINAL ART WORK

STATEMENT

作品について

虚無へ捧げるための供物

― 純心・恭順・贖い ―

高校二年の夏、中井英夫の長編小説『虚無への供物』を読んだ。当時の私にとって、その一冊との出会いはあまりにも大きかった。そこで私が受け取った「虚無」は、邪悪なものでも、悪魔的なものでもなかった。むしろそれは、人間がどれほど懸命に何かを築き、守り、積み重ねてきたとしても、それらがある瞬間、何らかの力によって失われ、崩れ去ってしまうかもしれないという、存在そのものに内在する不確かさだった。

努力も、記憶も、愛情も、時間も、永遠を保証されてはいない。

十七歳の私は、そのことを十分に理解していたわけではない。しかし「虚無」という言葉だけは、それ以後ずっと私の中から消えることがなかった。

恐れていたわけではない。逃げようとしていたわけでもない。ただ、いつもそこにあった。

人生の片隅に影を落とし、ときには遠くからこちらを見つめ、ときには目前に現れるものとして、虚無という存在は四十年以上にわたり、私の中に居続けた。そしてUNDULATIONの制作を始め、改めて虚無と向き合うようになったこの数年間、私は一つのことに気づいた。虚無とは、どこか遠い場所からやって来て、私たちの築いたものを破壊する何者かではない。それは最初から、私たちが生きることの中に存在している。そしてさらに考え続けるうち、もう一つの場所へ辿り着いた。

私が長い間見つめていた虚無は、私自身の心の中にもあった。

この三つの作品は、そのことに気づいたときに生まれた。三作品には、ほぼ同じ大きさの杉板が用いられている。表面に刻まれた年輪は、一本の樹木が生きた時間の痕跡である。中心から外側へと積み重なっていく無数の線は、時間そのもののようでもある。しかし、その杉板を支えている支柱は三作品すべて異なっている。板が「虚無」であるならば、支柱は、その虚無に向き合ってきた私自身である。変わったのは虚無ではない。

虚無を見つめる私の側が、歳月とともに変わっていった。

STATEMENT

虚無へ捧げるための供物 ― 純心

最も短く、静かで美しい曲線を描く作品を、《虚無へ捧げるための供物 ― 純心》と名づけた。まだ虚無が何であるかを知らず、それでもその存在に強く惹かれてしまった少年の姿である。「純心」とは、無知という意味ではない。まだ自分と世界との間に複雑な防壁を築いていなかった心である。高校二年の夏、『虚無への供物』という巨大なものに触れ、その意味さえ十分に理解できないまま、それを真正面から受け取ろうとしていた自分。そこには恐怖よりも、むしろ静かな好奇心があったように思う。

STATEMENT

虚無へ捧げるための供物 ― 恭順

二つ目の作品では、支柱は大きく前方へ伸びている。この作品を、《虚無へ捧げるための供物 ― 恭順》とした。「恭順」とは、力に屈服することだけを意味する言葉ではない。ここでの恭順とは、自分では変えることのできないものを認識し、それを受け入れながら生きる姿勢を指している。人生には、自分の意志だけではどうすることもできない出来事がある。

失うこと。
別れること。
老いること。
崩れること。
そして、終わること。

そうした不可逆的な出来事を前にしながら、それでも人間は日々を生き続ける。まっすぐに前へ伸びた支柱は、その長い時間の中で、虚無を否定するのでも、打ち負かそうとするのでもなく、存在するものとして受け入れてきた私自身の姿でもある。

STATEMENT

虚無へ捧げるための供物 ― 贖い

そして三つ目。支柱は再び大きく曲がり、捩れ、うねりながら杉板へと向かっている。この作品を、《虚無へ捧げるための供物 ― 贖い》とした。ここで言う「贖い」は、罪を償うという宗教的な意味だけではない。長い時間を生きてきた人間が、自分自身の過去、失ったもの、傷つけたもの、守れなかったもの、そして理解できなかった自分自身と、もう一度向き合おうとする行為である。

支柱は直線ではない。何度も方向を変え、捩れ、それでもなお先へ進んでいる。そこには、若い頃の純粋さも、ただ受け入れるだけの恭順もない。あるのは、虚無を知ったうえで、それでもなお生きようとする身体である。

STATEMENT

虚無

私は長い間、「虚無」を自分の外側に存在するものとして見ていたのかもしれない。しかし現在、私はそうは考えていない。虚無は外からやって来るものではない。失われる可能性も、崩壊する可能性も、終わる可能性も、最初から存在そのものの中に含まれている。そして、それを恐れる心も、それに抗う心も、それを受け入れる心も、すべて自分の中にある。だから私は、虚無を克服しようとは思わない。虚無に勝とうとも思わない。ただ、その目前に立つ。そして、自分が生きてきた時間そのものを、一つの供物として差し出す。十七歳の夏に出会った「虚無」は、六十二歳になった現在も、私の前にある。しかし、それを見ている私は、もうあの頃の私ではない。

《純心》《恭順》《贖い》。

この三つの作品は、三つの異なる虚無を表しているのではない。一つの虚無を見つめ続けてきた、一人の人間の、三つの時間である。そしておそらく、ここにある本当の供物とは杉板でも、銀でも、鉄でもない。

四十五年という時間を経て、なお虚無の目前に立ち続けている、私自身なのだ。

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虚無へ捧げるための供物

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