
THE ART WORK

STATEMENT
作品について
虚無へ捧げるための供物
― 純心・恭順・贖い ―
高校二年の夏、中井英夫の長編小説『虚無への供物』を読んだ。当時の私にとって、その一冊との出会いはあまりにも大きかった。そこで私が受け取った「虚無」は、邪悪なものでも、悪魔的なものでもなかった。むしろそれは、人間がどれほど懸命に何かを築き、守り、積み重ねてきたとしても、それらがある瞬間、何らかの力によって失われ、崩れ去ってしまうかもしれないという、存在そのものに内在する不確かさだった。
努力も、記憶も、愛情も、時間も、永遠を保証されてはいない。
十七歳の私は、そのことを十分に理解していたわけではない。しかし「虚無」という言葉だけは、それ以後ずっと私の中から消えることがなかった。
恐れていたわけではない。逃げようとしていたわけでもない。ただ、いつもそこにあった。
人生の片隅に影を落とし、ときには遠くからこちらを見つめ、ときには目前に現れるものとして、虚無という存在は四十年以上にわたり、私の中に居続けた。そしてUNDULATIONの制作を始め、改めて虚無と向き合うようになったこの数年間、私は一つのことに気づいた。虚無とは、どこか遠い場所からやって来て、私たちの築いたものを破壊する何者かではない。それは最初から、私たちが生きることの中に存在している。そしてさらに考え続けるうち、もう一つの場所へ辿り着いた。
私が長い間見つめていた虚無は、私自身の心の中にもあった。
この三つの作品は、そのことに気づいたときに生まれた。三作品には、ほぼ同じ大きさの杉板が用いられている。表面に刻まれた年輪は、一本の樹木が生きた時間の痕跡である。中心から外側へと積み重なっていく無数の線は、時間そのもののようでもある。しかし、その杉板を支えている支柱は三作品すべて異なっている。板が「虚無」であるならば、支柱は、その虚無に向き合ってきた私自身である。変わったのは虚無ではない。
虚無を見つめる私の側が、歳月とともに変わっていった。
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虚無へ捧げるための供物 ― 純心
最も短く、静かで美しい曲線を描く作品を、《虚無へ捧げるための供物 ― 純心》と名づけた。まだ虚無が何であるかを知らず、それでもその存在に強く惹かれてしまった少年の姿である。「純心」とは、無知という意味ではない。まだ自分と世界との間に複雑な防壁を築いていなかった心である。高校二年の夏、『虚無への供物』という巨大なものに触れ、その意味さえ十分に理解できないまま、それを真正面から受け取ろうとしていた自分。そこには恐怖よりも、むしろ静かな好奇心があったように思う。
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虚無へ捧げるための供物 ― 恭順
二つ目の作品では、支柱は大きく前方へ伸びている。この作品を、《虚無へ捧げるための供物 ― 恭順》とした。「恭順」とは、力に屈服することだけを意味する言葉ではない。ここでの恭順とは、自分では変えることのできないものを認識し、それを受け入れながら生きる姿勢を指している。人生には、自分の意志だけではどうすることもできない出来事がある。
失うこと。
別れること。
老いること。
崩れること。
そして、終わること。
そうした不可逆的な出来事を前にしながら、それでも人間は日々を生き続ける。まっすぐに前へ伸びた支柱は、その長い時間の中で、虚無を否定するのでも、打ち負かそうとするのでもなく、存在するものとして受け入れてきた私自身の姿でもある。
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虚無へ捧げるための供物 ― 贖い
そして三つ目。支柱は再び大きく曲がり、捩れ、うねりながら杉板へと向かっている。この作品を、《虚無へ捧げるための供物 ― 贖い》とした。ここで言う「贖い」は、罪を償うという宗教的な意味だけではない。長い時間を生きてきた人間が、自分自身の過去、失ったもの、傷つけたもの、守れなかったもの、そして理解できなかった自分自身と、もう一度向き合おうとする行為である。
支柱は直線ではない。何度も方向を変え、捩れ、それでもなお先へ進んでいる。そこには、若い頃の純粋さも、ただ受け入れるだけの恭順もない。あるのは、虚無を知ったうえで、それでもなお生きようとする身体である。
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虚無
私は長い間、「虚無」を自分の外側に存在するものとして見ていたのかもしれない。しかし現在、私はそうは考えていない。虚無は外からやって来るものではない。失われる可能性も、崩壊する可能性も、終わる可能性も、最初から存在そのものの中に含まれている。そして、それを恐れる心も、それに抗う心も、それを受け入れる心も、すべて自分の中にある。だから私は、虚無を克服しようとは思わない。虚無に勝とうとも思わない。ただ、その目前に立つ。そして、自分が生きてきた時間そのものを、一つの供物として差し出す。十七歳の夏に出会った「虚無」は、六十二歳になった現在も、私の前にある。しかし、それを見ている私は、もうあの頃の私ではない。
《純心》《恭順》《贖い》。
この三つの作品は、三つの異なる虚無を表しているのではない。一つの虚無を見つめ続けてきた、一人の人間の、三つの時間である。そしておそらく、ここにある本当の供物とは杉板でも、銀でも、鉄でもない。
四十五年という時間を経て、なお虚無の目前に立ち続けている、私自身なのだ。
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